舞台から見える景色

朗読とは何かと問う日々の中で、舞台から聴き手へと深くこころを寄せてみる。目の前に開ける聴き手の在りようを見つめる中に、これまでにない気づきを得ることがある。

過去の公演を振り返る中で、海外の経験は貴重である。異国での日本語による朗読は、知らない言語による朗読をどのように理解してくれるのかと不安ではあるものの、彼らはそれを他所に、どこか自由な、素朴でやさしそうな面持ちで訪れてくれる。作品の内容把握へと囚われるようでもなく、異国の文化に少しでも触れて、ここに居ることを楽しみたいとう気軽さであろうか。しかしながら、理解の在りようは事の他深い。その現れは、新しい何かに触れ、幼な子のような純粋な心を寄せて、無目的な生成を遊戯の中へと取り込んでいるかのようでもある。作品の意味内容ではなく、もっと生命の深みで受けとめて、共に居合すことを喜んでくれているのであろうか。この場は生命と生命の触れ合いにより、新しさと創造に満ちた世界となり、互いに新しく生まれかわる場と成り代わるかのようだ。

これらの生命の触れ合いの場を前にして、朗読とは何かともう一度問い直すのであれば、この触れ合いの中に、言葉の神秘を借りて、心深く和すことなのかもしれない。






日本文学に触れて

『少年時代、私は、「源氏物語」や「枕草子」を読んだことがある。手当たり次第になんでも読んだのである。勿論、意味は分かりはしなかった。ただ、言葉の響きや文章の調べを読んでいたのである。』

これは、川端の文章読本、第1ページの抜粋であるが、ここでは、少年時代の音読が、文章を書く上に最も多くの影響を齎らした事について触れている。

朗読家として生きてきて、文章の音律へといつのまにか虜となり、その本源へと遡ってみると、そこには和歌という世界があった。古代、万葉期の人々は、大いなる自然に育まれる中に、生命は自然へと調和し、そしてここに歌の主題を見出し、共に唱和していた。宴へと出かけ、歌の調べを以って、互いの心の象(カタチ)を掬いとり、心深く和すのであろうか。この国の文章の先達は、他者または対象を生命の深みで捉え、そこに一つと結ばれて、ここに響く言葉を紡ぎ出すようにと歌と表したのであろうか。

上古から近現代へと時代は進み、文学の様相も多くの変遷を経てきたことに違いはないが、その源には歌の調べが常に在って、今も尚、我々の心へと響いているのではないであろうか。この音律の歴史が、我々の中に確かにあるとすれば、音が導く生命の深みをもっと信じたくもなる。

朗読とは、この和歌の唱和のように、生命の深みで他者を受けとり、歌うように和すことなのかもしれない。





花々の命から ~令和と云う時代を迎えて~

新しい元号を迎えて、これまでにない心持ちで過ごすのであれば、そこに新鮮な思いへと触れることができて、この新しさが、いつしかと願いつづけた遠い夢をふと足元に結んでくれはしないであろうか。一体、どのような心ばえを以って、これからの時間を捉え直せばよいのであろうか。

この時代の新しさの基軸とは何か。旧い歌集に見出した元号「令和」の由来から考えてみたい。この由来は、日本最古の歌集、万葉集の「梅花の歌三十二首」の序文にある。ここでは、太宰師大伴卿(大伴旅人)が催した宴に、そこへと訪れた人々が、早春の「梅」を詠じている。新しい季節の訪いに、花々の姿を春の希望と借りて、早春の喜びを伝えてくれている。彼らは、この心ばえを以って歌と唱和し、そしてこの喜びが人々と和すことへ導いてくれたようでもある。万葉集にはこの他にも花々を主題としたものがいくつもあり、それ程までに、花の生命と人の生命は近しくも共鳴し、響き合っていたことがわかる。

この宴を催した旅人の息子の家持も、実は花を多く詠じている。彼はこの歌集成立の中心的人物でもあったが、家持にとっての花の生命は格別なものであり、人生の如何なる時も希望の現れとして受けとめたようにも思える。孤愁の人と云われる家持の人生は、艱苦に満ちていて、衰えようとする生命の中で、人生で出会った人々、出来事を花のような芳しさと共に懐かしみ、歌と詠み、心に和したかに見える。それらは心の花々として現れて、生きる力を高めてくれる希望の象(カタチ)にも見える。ただし、彼が呼び起こした花々は、美しさや優しさ、平和の象徴にとどまるものではなく、彼を苦悩へと追い込む元凶のようなものまでも含まれていて、人生のすべてに希望の象を掬いとろうとしているかのようである。家持の花々は殊に苦悩の中に明滅し、もう一度生きる力へと見送る、祝福の象(カタチ)と姿をかえ、現れてくれたのであろうか。

また同歌集に、人と花の命に関わる興味深い和歌を見出すことができる。(13巻3332)読み人知らずの歌であるが、ここには、『人は石ではなく、花から生まれた…』*と云う内容が含まれていて、万葉の頃の人々の生命と花々が一体に響き合っていて、また当時の人々の素朴な命の捉えようを見出すことができよう。

さてこのように、歌集を人と花の命の聯関で見つめ直すと、如上の梅花の宴の歌人達は、美しい眼前の花々に同じ生命を見出し、内的な深みにより、春と云う希望の姿と受けとめて、ここに花と和す力は高まり、そして他者と、明日の確かさへと和す力と成り得たたのではないであろうか。

また、同時期の古事記の中にも、花の命に纏わる神話を見出してみる。永遠の命を有した天孫の邇邇芸命(ニニギノミコト)が、人間の木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤヒメ)と結婚をし、短命の人間に移行して行く**のであるが、全能の神の子が何故にこの選択を行なったのかは神秘であるにしても、邇邇芸命(ニニギノミコト)は、この花の名を有した人間の姫をむかえることで、この花のような郁いくたる命が、心の希望となり、やがて永遠へと見送ってくれる祝福の花々となることを知っていたのであろうか。

清らかな風の訪いの中に受けとめる花々の生命は、その芳しさにより、人の生きる愁いを忘れさせてくれるのか。生きる支えと姿を変えて、新しい希望へと送り出してくれと云うのか。花々に囲まれて、心を調え、いつしかと人と、夢と結ばれたいものである…。

花々に象徴される命の美しさへと心を寄せて 歌のような調べの中に 深く和すこと

これが、新しい時代に託された人としの心ばえと筆者は受けとめている。

朗読家:英谷 綾子

  出典:「万葉集」(岩波書店)*久松潜一監修「万葉集と死生観・他界観/万葉集講座第2巻」
   (有精堂出版)**中西進著「古事記をよむ2 天降った神々」(角川書店)